2005年。秋。 アメリカに行った。 今回の旅をエスコートしてくれたのはSAGEのロッドデザイナー"ジェリー・シム"氏だ。 去年の6月、"TXL"の最終テストのために、初めて日本を訪れた彼の同行を務めた時、以前から何度も試みては全てが計画倒れで終わっている"スティールヘッドのFF事情"について質問をしてみた。というのもここ数年、アメリカもスペイキャストブームで、スティールヘッドをスペイで釣ると言うことがひとつのステイタスなフライフィッシングになっている。だから、ツアーに組み込まれた高価なロッジ以外の庶民的なガイド&ロッジは、常連リピーター達によってすっかり抑えられていて、本当にベストなシーズン中のリザーブは一連客では取りづらい。 そんなわけで僕はいわゆる"SAGEのコネ"を狙ったわけだが、彼はひとつ返事で快く「本当に来るんなら俺が案内してやる。」的なことを言ってくれた。ジェリー・シムとスティールヘッドを釣りにいけるなんて夢のような話に、内心、「ホントかな?」と少し疑ってしまったが、その後、"第一の計画"が送られてきて、その後の話はとんとん拍子に進んで今回に至ったわけだ。
シアトルのダウンタウンからフェリーに乗って35分もするとピュージェット湾に浮かぶ島、ベインブリッジ・アイランドに着く。古き良き時代の面影を残した町並みを見つつ、島のメインストリートをしばらく進むと、郊外の森に囲まれてSAGEは建っていた。ベインブリッジアイランドはグラファイトフライロッドの発祥の地と言ってもよい。SAGEを創立したドン・グリーンはもともと"フェンウィック"の技術者だった。グラファイトフライロッドを初めてこの世に送り出したメーカー、"フェンウィック"はこの島にあったのだ。また、SAGEの前身に当たるやはりグラファイトロッドの老舗ウィンズロー・マニファクチャーの"ウィンズロー"はこの島にある街の名前だ。 SAGEの工場を見ることも今回の旅の目的であるが、それは4日間の釣りを終えた後で、と言うスケジュールだったので、とりあえず彼の用意したシボレー・タホにタックルから食料までの一切合財を詰め込んで今回の目的地"オリンピック・ペニンシュラー"に一路向かった。
オリンピック半島はシアトルの西側に張り出す半島だが、僕はそれまでこの辺りの地形が把握できてなく、「半島」と聞いていても今ひとつイメージがわかなかった。世界地図で見ても半島は認識し辛く、ワシントン州の地図を見て始めて「なるほど」と納得できた。 半島はいびつな台形を伏せたような地形で、一辺が約160キロ。東側がピュージェット湾でシアトルはその対岸に位置する。北側はファン・デ・フカ海峡をはさんで沖合いはカナダとの国境となり、晴れた日、バンクーバーアイランドは目前に望める。西側は太平洋の美しい海岸線が永遠と続き、半島の中央には標高約2700メートル、頂付近には氷河も見られるオリンピック山脈の山々が連なる。 太平洋からの多湿な大気がオリンピック山脈にぶつかり、年間3000oを超える降雨量を生む。山脈の裾野にはそんな気象条件が育んだレイン・フォレストが壮大なスケールで広がり、中でも神秘的な森"ホー・フォレスト"は、世界遺産にも指定されているほどだ。氷河から流れ出た水はレインフォレストを通り太平洋へと流れ、タップリと森のエッセンスを含んだ流れは多くのパシフィックサーモンや多種なトラウト、そして今回僕達の目標である"スティールヘッド"を育てると言うわけだ。
僕たちのガイドを引き受けてくれたのはジェリーの友人でもある"J.D.ラブ"。J.Dはオリンピック半島の隅々とスティールヘッドフィッシングの全てを知り尽くしたスペイキャストの名手だ。彼はスティールを狙うのならこのサマーランの季節が一番楽しいシーズンだと言う。川の水量も適度で、サーフェースからボトムまでの多彩なフライフィッシングが楽しる。そして、"オクトーバー・カディス"のスーパーハッチが始まるとスティールはこのハッチに夢中になり、ドライフライで楽しめる至福な時間がやってくると言うのだ。 ラインウェイト#6〜7、レングスが13フィート前後のスペイロッドがここのFFに一番似合ったタックルだと教えてくれた。 有名なカナダのスキーナ水系や、アラスカのメジャー河川のように巨大なスティールヘッドをヘビーなタックルで狙うFFも良いが、このマッチ・ザ・ハッチ的でライトな感覚のスティールフィッシングは僕が今回の旅に惹かれた大きな理由でもある。
シアトルから車で約4時間も走るとオリンピック半島の北西部にあるフォークスと言う小さな町に着く。町のはずれに流れるクイリュート・リバー沿いのロッジに僕らは滞在した。 ロッジの各部屋は2つのベッドルームと広々としたダイニングキッチンと言った間取りで、キッチンにはあらゆる調理器具と巨大な冷蔵庫が設備されている。気に入った食材を好きなだけ持ち込めば大抵の料理に対応できる、だから、通常のロッジやホテルと違って食事の時間に縛られることが無く、釣りの旅にはもってこいだ。日本のフィールド近くにもこんなモーテルがあればさぞかし便利だろう。などと思いつつ、そうこうしてるうちに休む間もなく酒盛りが始まった。
今、日本でもスペイキャストがブームになっている。スペイキャストの魅力はキャスティングそのものがたまらなく楽しい。また、スペイキャストが創り出すラインの曲線は独特の美しさを放ち客観的に見てもとても優美だ。ただ残念なことに今、日本においてスペイキャストはまだ発展途上で、本来の有効性が日本のフライ"フィッシング"の中で定着しているとは言いがたい。これからスペイキャストを用いたフライフィッシングが定着し出せば日本のフィールドはまだまだ可能性を秘めていると思える。オリンピック半島に流れる多くの川の規模は、日本の鱒が棲む川の規模に近く、そういった意味で今回ここで体験するフライフィッシングが、スペイキャストを日本のフィールドで生かすヒントになるのでは?なんて思いもこの旅に惹かれたもうひとつの大きな理由だ。
いよいよ次の日の早朝、J.Dの案内でクイリュート・リバーの上流ボガシェル・リバーに向かった。 途中の森はまさに息を呑むスケールで、巨大な幹のヘムロックやスプルースがあちこちに聳え立つ。枝からレースの様に垂れ下がった苔の類が朝の光を浴び、森全体がライムグリーンの透過光に覆われていた。フトンチットの香りがいっぱいに立ち込める林道が川へさしかかった時、ジェリーが静かに話し始めた。 「少し前の話なんだが、ちょうどこのあたりを近くに住む農家の主が犬の散歩していると、茂みから突然出てきた影に襲われて…一瞬にして、農夫の手に残ったのはリードだけになってしまったんだ…。」 「…?」僕を含め愛犬家が聞くと背筋が凍るような話を表情も変えずに始めたのだ。この森には多くの野生動物が生息している。あちこちにエルクの足跡があり、その後、ボブキャットやブラックベアーに出会えた。そしてその農夫から愛犬を奪い去った、この森の食物連鎖の頂点に立つ動物、それは"クーガー"なのだと言う。 始めはアメリカ人特有のジョークなのだと思っていたがその後「クーガーを見た場合はあわてずに、騒がずに…。」なんていう呑気なことが書かれた看板をあちこちで目にし、実際に足跡も見つけた。熊よりも出会いたくない動物の存在を知り、僕達の中に少しの緊張感が漂った。
J.Dが選んだポイントは海から約6マイルほど上流に位置する付近だ。森が深くそれほど海が近いということが感じられないが、距離的に遡上した多くのスティールがはじめに一息つくのがこのあたりなんだとJ.Dが言う。少々渇水気味のボガシェルリバーだが川原は少なく、両岸のブッシュが流れまで迫っている。水そのものの透明度は相当高いはずだがタンニンを多く含んだ流れは全体的に茶色く見える。 川沿いをしばらく下ると比較的流れの緩やかな長いランに出た。流速、水深、ボトムの状態とどれをとっても遡上した魚が休むのにベストな、このあたりで一級なポイントなんだと一目でわかった。 ジェリー達がプールの流れ込み付近から下流に下るポジションを取り、僕とJ.Dは流れ出しのヒラキ付近を流してみる事にした。流れは見た目以上に重いうえに川底の石のぬめりがきつく少々歩きづらかったが、なにしろこの場面にたどり着くまで随分な時間がかかっているので能力以上の早足で川の中を歩きアプローチのためのポジションをとった。
ボガシェル用に僕が選択したタックルは12フィート5番のスペイロッドだ。"ウルトラライトスペイ"と呼ばれるこのロッドはSAGEがサマーランスティールやシーランカットスロート用に開発したロッドだ。日本の鱒のサイズにもこのロッドがピッタリ来る。もちろん魚のサイズだけではなく流れの規模でアプローチを優先するならばヘビーなタックルも時として使わざる得ないが、できればなるべく対象魚にあわせたタックルを使いたい、と言うのがいつもの僕の心情だ。
初めのキャストはタイミングが取りやすい"ダブル・スペイ"で控え目にキャストしてみた。5番と言えども通常のラインに比べ径の太いスペイラインは流れの抵抗をうけやすく、フライが流れを横切るのを伝える重みがいかにもな期待感をあおる。 しばらくステップダウン&キャストを続けながら下流へと釣り下るがラインに伝わる生命感は全く無い。集中力が切れてきてふと上流を見るとジェリーがもう近くに迫っていた。彼は13フィート7番のロッドを使い見事なアンダーハンドキャストで12メートルほどのシューティングテーパーを楽々と操っていた。彼にもやはり魚の気配は無いようだ。J.Dがしきりに言っていたが、このオリンピック半島周辺もここ数年不安定な気候が続いていて、特に夏以降の雨量は例年の平均値に比べ異常なほど少ないそうだ。季節から言って河口付近には相当数のサーモンやスティールヘッドが遡上のタイミングを今かと待っているに違いない、だがその引き金になる増水がないということは川にいるスティールヘッドの絶対数が少なく、ただでさえ確率の低いこの手の釣りでこのマイナス要素はかなりの痛手だ。だんだんとマイナスな思考が頭の中に居座るようになって来た。
結局その日もその次の日も、スティールの気配すら感じることができずに終わっていった。もちろん全く魚が釣れなかった訳ではなく、時折カットスロートや、ブルトラウトと呼ばれるドリーバーデンに似た魚が釣れはしたが、スティール以外は写真に撮る気も起こらない。 ストイックでマゾヒスティックな思考までもが頭を支配しだした3日目の朝、ジェリーが僕に向かって「Rela〜x!」と何度も言う。 相当顔が引きつっていたのか、こんなところまで来ていても楽しめていない本心を見透かされて少々恥ずかしくも思ったが、もうあとが無い。遠征の釣りでなかなか結果がでないと本当にアセる。ガイドはよく「また来月来いよ。」なんて簡単に言ってくれるがそうはいかない。プレッシャーは信じられないミスやトラブルを生み、そんなことを考えるとまたさらに顔が引きつってくる。
その日は朝から初日に入った長いランを釣ることになった。川原の水際の石にはオクトーバーカディスが残したピューパのシャックだけが無数にしがみついている。オクトーバーカディスは日本では見られないトビケラで、サイズはヒゲナガとほとんど同じくらい。驚いたことに多くのストーンフライと同じ様に、岸辺に這い上がる陸上での羽化形態をとる。だがハッチは夜中に起こるのか、アダルトの姿はどこにも見られない。しかし、これだけの羽化のあとだからこの流れにスティールが居るとしたら間違いなくこのハッチに誘われているだろう。僕はそれまで使っていたシンクティップをはずしてフローティングラインにしてみた。リーダーの全長を4ヒロ近くとりティペットのサイズも3Xに落とした。重めのフライを使って底を取る方法に切りかえてみたのだ。流速、水深がそれほど無い流れに対して、そのほうがより繊細なコントロールがしやすく、渇水でスプークしているスティールを振り向かすにはそれがベストと考えたわけだ。長いリーダーに重いフライは少々扱い辛いが、オーバーヘッドに比べてスペイキャストならば静かに、トラブル無く、しかも驚くほど効率よくアプローチできる。
釣り始めて30分後、それまでのカットスロートなどとは全く違った感触がラインを通して明確に手元に伝わった。 ジェリー達にもすぐに気づいてもらえるほどのジャンプを最後まで派手に繰り返し、目の前に横たわったのは約7ポンド、"スティールヘッド"と呼ぶにはまだまだかわいいサイズの、それでも綺麗で、精悍で、最高な感動をくれたスティールだった。 その後、アプローチとフライがマッチしたのか?たまたま条件が重なったからか?またしてもスティールが僕のフライをくわえた。それまでの苦労はなんだったんだろう?などと思えるほど簡単に。 結局、当初目論んだ「スティールヘッドをドライフライで・・・」と言う筋書き通りには行かなかったが、どうにかこうにかスペイキャストでスティールを釣ることができた。またそれ以上にジェリーやJ.Dから多くのものを学んで、結果的に充実した旅で終えることができた。最後に希薄なボキャブラリーを総動員させてジェリーにお礼を言うと、「My pleasure!」と答えてくれた。 その満面の笑みを見たとき「ここに来て本当によかった」と思った。